軍大臣の文官任用を提唱

松山市中心部の正宗寺境内に水野広徳の歌碑がある。「世にこびず人におもねらず我はわが 正しと思ふ道を途まむ」。まさに、この通りの生涯だった。

海軍中佐時代の1914(大正3)年、匿名で日米仮想戦記「次の一戦」を出版した。松山市立子規記念博物館の平岡瑛二・学芸員(34)によると、日本からの移民をめぐり米国で反日感情が高まったのを背景に書かれた。まだ「反戦」ではなかったが、このままでは負ける、海軍力の強化が必要という内容だった。軍事外交上の機微に触れる部分があったため匿名が発覚し、謹慎5日の処分を受けた。

こうした先を見通した「直言」は、反戦・平和主義に転じた後、さらに示し続けた。

米国を仮想敵国とする政府の新国防方針に対して、23(大正12)年、国力、経済力が劣ることを理由に警鐘を鳴らした。25年の「日米両国民に告ぐ」では双方に敵視を戒めた。

32(昭和7)年の「打開か破滅か 興亡の此一戦」で再び日米戦争を取り上げ、日本の苦戦や東京大空襲を予想した。平岡さんは「東京が火の海になるという真に迫った情景が描かれ、刺激的な内容でした」。すぐに発売禁止になった。

水野は両親を早く亡くし、独立独歩の精神が強かった、と雑誌の取材に答えたことがある。そして弱い者が虐げられることが我慢ならなかったという。戦争もそうした弱者の視点で見ていた、と平岡さんは指摘する。

「総力戦では、すべての国民が戦争協力を迫られます。国民一人一人が平和の問題を自覚して政治的意識を持ち、軍部を制御できるようになれば戦争は防げると水野は書いています」

後の軍部暴走につながる制度や憲法解釈を批判する論文も発表した。軍部大臣開放論では軍人以外の文官任用を提唱した。そのころの陸海軍大臣は現役か非現役の大将・中将が就いていたが、論文後、青年将校によるクーデター未遂「2・26事件」(36年)が起き、軍部大臣現役武官制が復活。軍部が内閣の「生死」を握り、それまで以上に政治を意のままにしていく。

軍を指揮する権限の統帥権については「憲法を正当に解釈すれば統帥権は統治権内に含まれる」と指摘。内閣や議会から干渉されずに独立する、という軍部の解釈に異を唱えた。

だが、戦時体制が強化されるにつれ、発売禁止が増え、執筆が制限された。当局が雑誌社に示した執筆禁止リストに加えられた水野は、論文発表の場を失い、俳句や短歌、日記に思いをぶつけた。(中村尚徳)